■■■【特別コラム】南條設計室のまちづくり■■■

2022.08.19

この度、所長南條のコラムをはじめます。スキマ時間にお読みいただけると幸いです。



「まちづくり」とは?

「まちづくり」という言葉を私も良く使うが、実はその言葉の意味はきわめて曖昧である。私の手元の辞書などを探してみると;
「行政当局による都市計画に対し、住民が主体となって行う町の建設や管理、運営の計画および事業、活動をいう」(建築大辞典第2版彰国社刊)や「地区やコミュニティ単位での整備、開発などの計画や事業をさす」(建築学用語辞典第2版日本建築学会編岩波書店刊)などの定義に辿り着くが、結局のところ良くわからない。
私の学生時代の建築や都市の授業では、まだ「まちづくり」という用語は使われていなかったと思う。当時拠り所としていた建築用語辞典(技法堂昭和46年刊)を改めて検索してみたが、目次にも索引にも登場しないから、おそらくまだ使われていなかったのだろう。 そこで「南條設計室のまちづくり」について改めて考えて見たのがこの小論である。    


アーバンデザインの時代

1971年都市工学科卒の私は、丹下健三教授室に置かれた、先生の「東京計画1960」(東京湾一帯に拡がる未来都市)の模型を見て育った。
当時の流行語はアーバンデザインであり、著名な建築家は次々とこのような未来都市のイメージを描き出して世に問うていた時代だ。
ところが70年代も後半になると第一次オイルショックなどを経て経済状況は一気に悪化し、都市をめぐる議論は大きく転換する。
「草の根」という言葉が流行し「コミュニティ」という英語が日本語になっていく。
そのころから草の根運動、コミュニティ形成、市民参加、ワークショップなど新語が続出し定着していくのだが、それらを総称する便利なことばとして「まちづくり」が使われるようになった。
日本独特の民主的な都市計画手法としての新しい概念であり、ひらがな表記であることが特別の意味をもっている。


建築学から都市工学へ

1962年に東京大学工学部に建築学科と土木学科の都市系・環境系の講座が合体し都市工学科が誕生した。1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博の立役者であった高山英華と丹下健三という二人の実力者が尽力したとされる。彼らに私は学び東大闘争の真っ只中、都市とは?建築とは?を学び1971年に卒業する。
卒業と同時にRIA建築綜合研究所(現アール・アイ・エー)に就職し四年間、主に都市開発系の業務に従事した。就職すると直ぐに浦安埋立地の土地利用マスタープラン策定という業務を担当した。東京ディズニーランドは「遊園地予定地」と書かれ、京葉線を臨海高速鉄道と呼び、新駅の位置はどこが適切かなど検討した記憶がある。
また1969年制定「都市再開発法」の特訓を受け、自治体が駅周辺の密集市街地を再開発するための基礎調査業務なども担当した。
都市に近づき建築から遠ざかる四年間だった。


都市計画とインテリア

都市計画の道を進むべきか、建築設計の道を進むべきか、選択を迫られ悩んでいたが、1975年ブラジルに渡り、建築家ジョアキム・ゲデスの事務所で働き始めると不思議な日々を経験することになる。
都市計画を縮尺一万分の一の地図上で議論しているその脇で、同じメンバーが同時にインテリアや家具デザインを巡って大論争を始めるのだ。建築は都市の構成要素であり、都市計画は建築家の出場種目である。と同時にインテリア・家具・アートなども建築家の得意種目なのであり、都市か建築かの選択ではなく、二兎を追うのが必然だというのだ。
スラム問題や公営住宅政策なども建築家の重要な関心事だ。都市から建築まで分け隔てなく取り組む事が建築家の職能なのだと知る。
新首都ブラジリアも環境都市クリティーバも、建築家主導でつくられた都市なのである。このブラジル建築界の稀有な体験を経て、1985年に南條設計室が誕生する。


建築家とは?

建築系の学生が一級建築士合格を目標とするのは昔も今も変わらない。学科試験では五教科満遍なく暗記した知識量をマークシートに託す。次は製図工実技試験だ。こうして日本製「建築士」が誕生するのだがグローバルな「建築家像」とは全くの別物だ。
サンパウロ時代、法規から構造・設備まで何でも知っていて、おまけに製図も達者な私を事務所は大いに重宝したようだが、技術的なことは何も知らず、製図もドラフトマンに任せっきりの同僚達が、技師への修行ではなくアーキテクトへの英才教育で育ってきている違いを私は思い知ったのだった。アートや空間の感性と表現力、社会性、国際性、社交性などに支えられたカリスマ性こそが「建築家」に求められる資質だと痛感する。多趣味多芸は建築家の条件なのだ。


映画監督か指揮者か

80年代当時、映画監督黒澤明と指揮者小沢征爾という二人の日本人が世界的に知られていた。映画やオペラでは、表で活躍する主演俳優やソリストのまわりには多くの助演者達や技師達が居てそれを支えている。それらを一つにまとめあげるのが、監督や指揮者の役割だ。
建築家は都市から建築まで、また技術から芸術までの様々な要素を組み合わせ、纏め上げていく。映画や音楽における監督や指揮者の役割と似ている。小さな建物ひとつを建設するにも構造・設備などの技術者が必要だし、まちづくりの舞台ではデザイナーやアーティスト達とのコラボレーションはもちろん、弁護士・税理士・鑑定士などコンサルタントとの調整役が必要だ。加えて情報化社会でデジタル化が進むなか、まちづくりも高度化している。
かくして、建築家がまちづくりの担い手の選択肢たり得る。まちづくりは建築家に適した演目なのだ。


街は住宅で出来ている!

街なかを歩くとき、大きく目立つ建物が眼にとまる。市役所、市民会館、博物館、美術館、図書館、学校、病院など、都市の重要な公共建築群の存在感は言うまでもない。最近では駅前の超高層タワーとその足元の商業施設なども重要な景観要素となった。
一方、空港を飛びたつと眼下に都市の姿が見えてくる。目に映るのは道路網と街区割が識別できる程度の地図を見ているような景色であり、膨大な数の住宅が「群」として眼に飛び込んでくる。新幹線の車窓からも駅から少し離れると目に入るのは住宅ばかりだ。
点在する公共建物はマクロにはひとつの点でしかなく、むしろ住宅街区がその都市の主要部分として見えてくるのだ。「街は住宅で出来ている!」と感じる瞬間である。


「住宅から都市デザインへ」

幕張ベイタウン建設は「住宅で街をつくる!」という実験でもあった。日本の主要住宅デベロッパー各社が事業主体となり、多くの建築家が参加した。完成したこの街は、欧米型の沿道中庭型モデルの独特な景観となり高い評価を得ている。
各事業会社グループには計画設計調整者という名の建築家が専属で指導にあたり、目指すべき街の絵姿を守り、あるいは修正して対応してきた。調整会議は実に20余年、計百回を超える長期戦であった。
集合住宅設計の枠を飛び越え、沿道空間や街路・公園の空間性や学校群との関係性等にも配慮した「街スケールのデザイン論」が根付いていったのだった。さらに管理・運営面でも住民参加型の様々な取り組みがはじまり、ソフト・ハード両面から注目されている。
この幕張ベイタウンでの長年にわたる貴重な経験がベースとなり、「住宅から都市デザインへ」という南條設計室の理念が定着した。


まちづくり=都市デザイン

冒頭に自論「まちづくりとは?」を述べたが、南條設計室が関わるまちづくりを絞り込むと「都市デザイン」という表現がより相応しい。 私達は、都市・建築からインテリア・家具までの様々な縮尺でデザイン提案する。その目的は人々が棲む生活空間=街をデザインすることであり、住宅を根気よくデザインし続けていくことで、その先に結果論として都市デザイン(まちづくり)が完成すると考えている。
都市デザインとは、建築・土木・外構に加え、色彩・照明・サイン・アートなど様々な環境デザイン領域を包含する概念であり、事務所としてそれらの研鑽を続けるほか、各専門デザイナー等と提携したネットワークを構築している。


まちづくり行政と共に

最近は自治体窓口で「まちづくり課」の看板をよく見かける。道路整備やごみ収集などが主流であった都市行政サービスはいま、まちづくり行政という名のもとで、福祉、教育、文化、活性化、景観整備など、大きくその対象を拡げつつある。
建築家の役割が単に建物の設計に留まらず、全ての都市の活動への関与が期待される時代になった。テーマが多岐にわたるということは、多くの専門家たちとのコラボレーションが不可欠となり、その調整役としての建築家の存在がクローズアップされてきている。
経年で老朽化してきた学校や公民館などの建替や、商店街の活性化やバリアフリー化が各地で始まっている。加えて省エネや脱炭素など、地球環境への配慮を目的とした様々な都市施策が求められるようになった。
SDGsはもはや必須のまちづくり行政課題であり、建築家として行政や市民団体などとも協働する時代だ。


都市再開発事業への参加

我が国の市街地再開発事業は道路広場など公共空間の整備と建物の不燃化を目的に始まったのだが、近年ではバリアフリーや省エネなどにも配慮し豊かな潤いのある文化的都市居住を実現する目標に変わった。
都心で大規模敷地を確保することは至難であり、細分化した民間敷地を統合する再開発事業は有力な「まちづくり」手法なのだ。
複雑な都市計画手続きを経て組合を設立し、着工そして竣工するまで十数年を要することが多い。その間、地権者の合意形成や参加企業への対応など、各段階で街の将来像を分かりやすく描き示す役割は重要だ。事業や制度の仕組みを正しく理解する必要があるし、多様なリクエストにも対応していく柔軟性と統括力とが求められる。
単独敷地内での設計とは違い、道路広場なども含めて設計する「都市デザイン」の実践でもある。南條設計室は多くの事業に様々な役割で積極的に参加し、研鑽を続けている。


マスターアーキテクト

一つの街を創り上げるには、長大な年月と様々なノウハウの集積が必要となる。企画から計画・設計段階を経て、建設・竣工までの道のりは険しく長期におよび、多くの人々が入れ替わり参加する。
デザインガイドラインを策定し、明確なデザインコンセプトを掲げ、参加者が共有する手法が有効である。各段階で発生する様々な課題に対して、デザインの一貫性を調整するのが、マスターアーキテクトの役目だ。
南條設計室は狭山市駅西口再開発事業の企画段階から参加し、設計・施工段階ではマスターアーキテクトとして全体デザイン総合調整業務を担当した。これも「まちづくり=都市デザイン」への参加形態のひとつだ。


都市のデザイン監修

南條設計室では20年ほど前から「デザイン監修者」という参加形態を模索してきた。自らが設計者である場合はもちろん、設計者が他者である場合でもまちづくり=都市デザインの視点からデザインを分担する役割だ。それを市街地再開発事業など都市のスケールで行うのが「都市のデザイン監修」である。
市街地再開発事業は規模も大きく、商業施設やホール等特殊文化施設との複合であったり、超高層・免震構造など特殊技術を必要とする事も多い。そこで分業により我々はマスターアーキテクトとしてまち全体の都市デザインを担当する。
こうした考えから南條設計室は多くの集合住宅のデザイン監修を行い、また市街地再開発事業にも都市のデザイン監修者として積極的に取り組んでいる。
「都市は住宅でできている」という認識で、日本のまちに「住宅から都市デザインへ」を続けることが「南條設計室のまちづくり」なのだ。


記・南條洋雄


南條設計室のまちづくりリンク
オアーゼ芝浦
狭山スカイテラス
プラウドシティ浦和
幕張ベイタウン パティオス19番街
ブランズガーデンあすみが丘東 the Park
幕張ベイタウン パティオス・グランアクシブ
エルザ世田谷
プラウドシティ大泉学園
幕張ベイタウン パティオス・グランエクシア
シエルズ・ガーデン
飯田市橋南第一地区第一種市街地再開発事業
ウェルシティ横須賀
幕張ベイタウン グランパティオス公園東の街
伊東駅前まちづくり
青梅市駅前再開発