■■■【特別コラム】コンペ審査を通じて感じたこと ■■■

2023.02.06


大阪万博2025開催に向けて着々と準備が進んでいる。ブラジルは近年、各国の万博に積極的に参加を続けている国の一つであるが、1970年以来の開催となる大阪万博に向けての準備が始まっている。
ブラジル・パヴィリオンの設計者を選定する国内公開コンペが昨年行われた。七名の審査員の一人として私が指名され、昨年11月末に首都ブラジリアに8日間滞在し、全40応募案の中から、当選案ならびに各賞を選定してきた。いろいろと思うことも多く、感じたことを少々述べさせていただく。


ブラジルにおけるコンペと私

ブラジルでは建築家の登竜門としてコンペが盛んに行われる。相当古い話で恐縮だが、私も27歳で渡伯した翌年の1976年に28歳でバイア州国際会議場のコンペに優勝し、そこからプロの道を歩み始めて今日がある。
私のコンペ歴は学生時代に始まる。母校の東京大学工学部都市工学科では丹下健三教授の門下生たちが教壇にたって私たちを指導していた時代であり、先日他界された磯崎新氏や大勢のいわゆる「丹下研」の諸先輩たちから、「建築とはコンペに勝つことから始まる」みたいな教育を受けていた。そして、助手であられた土田旭先生の参加されるコンペの雑用係をさせて頂きながら、コンペとは何ぞや、かように戦うべし、を学んだのであった。


万博の歴史とコンペ

1970年大阪万博は私にとって建築の道を肌で感じる決定的なイベントであった。既に興味のあったブラジル館を訪問した時の印象は、残念ながら数多の作品群の全てと同様に私の記憶には具体的には残っていない。残るのはあの岡本太郎の太陽の塔だけなのだ。
実は、その70年大阪万博ブラジル館の設計者が、昨年他界したパウロ・メンデス・ダ・ロッシャ、プリツカー賞受賞者そのひとなのである。75年には彼の事務所に行き、就職を切望したのだが雇って貰えなかった。オスカー・ニーマイヤーも1938年ニューヨーク万博ブラジル館の設計者である。 今、日本では、とりわけ関東では万博に対して冷ややかな意見が多い。かくいう私もほとんど関心が無かったのだが、昨年夏頃から審査員内定を受けて改めて大阪万博の下調べをすることになった。
古くは1889年のパリ万博があまりのも有名である。あのエッフェル塔がそのパリ万博のために建設されたわけで、当時の万博へのフランス政府の強い思いを感じる。


コンペにかけるエネルギー

日本でも幾度かコンペ審査員の経験もあるが、審査は通常半日程度である。さて、この度の審査会への招状をみて驚愕であった。なんと審査会が全6日間の会期なのだ。ブラジリアのホテルにほぼ軟禁状態で、客室と審査会場とを往復する日々であった。
審査会場では全審査員にパソコンが用意され、全作品はデジタルデータで完全にペーパーレスであった。要項を確認すると、提出書類は完全にフォーマット化されたデジタルデータのみであり、提出はメール送信なので、締め切り日時の1秒前のクリックでも受付成立とのことだった。
受付と同時に事務局が各作品に審査用の番号を与え、我々審査員は最後までその番号で審査するので、私が優勝者の名前を知ったのは、日本への帰路、中継地のボストン空港ラウンジにてプレス発表をインターネットでみた時であった。
ブラジル館の建築主は政府機関であるが、コンペの運営はすべてブラジル建築家協会(IAB)に委託されており、募集から審査までの一切を、入賞賞金も審査員経費も含めたかなり高額な予算のもとで進められていることも、日本の事情を鑑みるにまるで別世界だ。
ちなみに我が国コンペで審査員名の公表は稀有であるが、ブラジルでは募集要項に全審査員の顔写真と略歴とが公表されていた。私は開催国日本からの参加だし、アメリカからの参加もひとり、そして過半数は女性審査員である点も注目したい。かくして審査は厳粛かつ公正に進められた。審査に集中する私の顔をご覧いただきたい!


優勝案と入賞案

全40案の中から、前述のように丸一週間の厳重な審査を経て、優勝案と入賞案とが選定された。今日現在では、既に様々なサイトにて公開されているので、ここでは優勝案の代表的な映像のみをご紹介する。


日本の現状は?

帰国して報道をみると日本でも多くのコンペやプロポーザルが行われている。南條設計室もいくつかのプロポーザルに参加している。昨年末に地球の裏側で稀有な経験をしてきたので、ここで両国の大きな違いを感じて、ある種の危機感を抱いてしまう。

第一に、コンペやプロポの位置付けに関する違いが指摘できる。日本では多くのコンペもプロポも公募とは言え、参加資格に過大な条件が課せられているので、経験豊富かつ大規模事務所でなければ参加することができないのが現実であり、行政側が堅実で無難な選択を目指していることが露骨である。審査基準も審査体制もそのようにつくられていて、審査委員名簿も議事録も公表されず、お役人だけで選定されるケースも多い。

提出物についても、日本ではいまだにアナログが主流である。すべて「紙」ベースであり、募集要項に定める「様式」が絶対視され、使用するフォントや各ページの綴じ方まで指定され、複写コピー十部提出はあたりまえ、しかもその全てのCD添付も義務付けられている。デジタル化しCD化するのであれば、紙媒体の提出は無用ではないか。ブラジルのコンペ審査はすべてパソコン上で行い私の手元には紙媒体は一切無かった。
コンペのやり方にして、このように遅れている日本の現状は悲劇あるいは喜劇的とも言える。しかし、深刻なのは「より良い提案を広く募集し採用する」というコンペ(プロポ)の前提がそもそも希薄であることに危機感を覚える。
冒頭に、私は学生時代に丹下研の諸先輩からコンペ熱を吹き込まれたことを述べた。しかるに今の若者にはコンペやプロポが「決まった著名作家や大組織を選ぶ儀式」に見えていないかだろうか?
改革に取り組まねばならない問題である。


記・南條洋雄