■■■建築に生きる 第21回 コンペという魔物■■■ 

2024.03.15

第21回 コンペという魔物


コンペ優勝に酔う

1965年丹下健三のスコピエ市復興計画の国際コンペ優勝を報じるNHKテレビでコンペという言葉を知った。東京大学都市工学科時代、大谷幸夫先生からは京都国際会議場コンペのお話を何度も聞き、1970年土田旭先生のウィーンの国際コンペチームの作業班を経験した。RIA時代には渋川市民会館コンペのチームで優勝を体験した。こうして「コンペはやるべきもの」が染み付いていた私、ブラジルに渡った1975年、バイア州立国際会議場公開コンペにウルグアイ人HECTOR VIGLIECCAと参加した。
車も電話も持てず小さなアパートで暮らしていた頃、ある夜に仲間達が「コンペ優勝」の報を知らせに来てくれた。その夜は明け方まで美酒に酔ったのだった。翌日はテレビ報道や新聞取材で一躍メジャー舞台に、当時若干28歳だった。
優勝賞金は受け取ったが建築士資格の不備を指摘され、建設は二等案に譲る結果になってしまったが、我が青春の大きな出来事であった。以来、コンペに病みつきになる。


連戦連敗

ブラジルに二匹目のドジョウは居なかった。1985年帰国し青山で事務所を始めたころ、スタートダッシュを期してコンペに応募を続けた。藤沢湘南台センター、新見南吉記念館、東京国際フォーラム、横浜大桟橋旅客ターミナル、郡山市産業展示場などなど良くぞ続けたものだ。結果は連戦連敗、同名の安藤忠雄の著書で気合いを入れて頑張った時代だった。
岡山サッカー場と滋賀県浅井文化センターでは三位入賞を果たせたのが良い経験ではあるが、やはりコンペは勝たねば悔しい。
内容的には別物だが事業コンペではかなりの勝率を残せた。当落に関わらず受託しての報酬付き参加だし、当選すれば業務受託となるので経営的には助かるが、逆に勝率を維持しなければ依頼されなくなる。
多くのアトリエ系同僚からは、公開コンペは勝算が低いのになぜやるのかと聞かれる。答えは、丹下系の遺伝子なのとバイア州での勝利の美酒が忘れられないから、と答える。


審査員の責任

2016年近江八幡市役所の公開設計コンペで審査員を務めた。このコンペを巡っては様々な「事件」が発生し市長が選挙で変わると当選案が着工していたのに白紙撤回された。
小田原市城下町ホールでは公開コンペの当選案が市長交代により白紙となり、二度目の当選案もコスト問題で着工できず、三度目のデザインビルドでの当選案で竣工した。私は小田原市景観評価員の職にあったため全三案をデザイン調整した。
2022年に大阪万博2025ブラジル館コンペでは審査員を仰せつかり、ブラジリアにて5日間の厳正なる審査を行った。素晴らしい一等案を選んだつもりだが、施工者が見つからずその案の建設は断念するようだ。
コンペの審査員が日本では軽視されている。当選案を実現させる裁量がないことも問題だ。
公募型プロポーザルが頻繁だが、過度な実績偏重プレゼン強要など問題が多い。コンペとプロポの違いについては、稿を改めたい。


記・南條洋雄

■第1回 建築を愛しなさい
■第2回 建築家=指揮者 
■第3回 小さな村の物語
■第4回 建築家という職能
■第5回 デザイン監修論
■第6回 まちづくりに参加する
■第7回 リノベーション最前線
■第8回 住宅が建築の原点
■第9回 美しい国づくり
■第10回 美しい職場・楽しい職場
■第11回 建築家は芸術家か
■第12回 建築家も地震と戦う
■第13回 建築家は旅をする
■第14回 マンションと呼ばないで!
■第15回 建築家という生業
■第16回 建築と神事
■第17回 建築家は外交官
■第18回 正月の警鐘
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■第20回 建築家は二兎を追う